「ウォッカ屋」物語


「ウォッカ屋」物語<その7>

 「実はこの会社の支社長が会いたいとの話で」と急に話が飛んだ。
そこへ支社長が突然現れて、事情が急展開したのであった。すなわち、クリエイターとして我が社に来ないか・・と言う、いわゆるハンティングであったのだ。
支社長の名前はJ・ブルックスと言って、ハンサムでまだ若いイギリス人であった。
彼が日本支社長であり、声をかけてきた彼がクライアントであるSASの広告担当重役であったのだ。さあ、そこでまた自分の人生が転び始めるのであった。

 このチャンス・・か、どうか、吉とでるか凶とでるか・・思い切って会社を移ることになった。
オフィスは見事で、制作室として個室が与えられ環境としては十分であったし、何より給料が当時(1966年)25歳であったが、日本円で40万くらいだったのが何よりの魅力。
しかし、落とし穴があったのだ。給料日には銀行振り込み(アメリカンバンク=丸の内)であったが、これが小切手支払いで最初はとまどった・・しばらくしてこれは日本では合わないと言う事が分かって(直訴により)改善されたが。

 だが当時はまだ正式に100%出資の広告会社ではなかった。本社はアメリカ・ニューヨークマジソン・アベニューに在り、世界各国に支社があった。ゆくゆく日本も貿易自由化になり100%出資の会社になると説明された。
さて、ここで働くことになるのだが、いろいろな意味で冒険が待ち受けていたのであった。